书讯丨道敎と中國撰述佛典 (PDF)道敎と中國撰述佛典
日本・朝鮮を中心とする東アジア宗教文化の展開過程に占める道教の意義とは―仏教に注目し考察する。
二、敦煌本『仏説七千仏神符経』『仏説益算経』とその伝来 太上老君説長生益算妙経』『仏説七千仏神符経』対照表竝びに校異 古写本二種 翻刻――東寺観智院本・真福寺宝生院本―― (1)実運『玄秘抄』と守覚法親王『秘抄』の招魂作法 (3)東寺宝菩提院本『招魂事』と流布本『延命招魂作法』第八章 『三星大仙人所説陀羅尼経』 と妙見信仰・尊星王法 一、 『三星大仙人陀羅尼経』と『七仏八菩薩所説神呪経』第十章 古写経の跋文と道教的思惟――坂上忌寸石楯供養経を中心に――第十一章 深智の儔は内外を覯る――『日本霊異記』と古代東アジア文化圏――第十二章 永劫の宝地――七寺本『安墓経』とその周辺――第十五章 北斗信仰の展開と朝鮮本『太上玄霊北斗本命延生真経』 朝鮮本『仏説広本太歳経』(韓国国立中央図書館所蔵写本)影印終 章 ベトナムにおける偽経と善書の流伝――仏道儒三教と民間信仰の交渉をめぐって―― 一、 ベトナムとの往還――仏哲・平群広成・阿倍仲麻呂―― DAOISM IN JAPAN (Livia Kohn訳)あとがき――増尾伸一郎さんの道教研究―― (丸山 宏)【あとがき「増尾伸一郎さんの道教研究」より】(抜粋) 本書は、増尾さんが序章で述べるように、東アジアの日本と朝鮮を中心とする宗教文化の展開過程に占める道教の意義について仏教との重層性に注目しながら考察するものである。増尾さんによれば、古代日本では道士、道観の存在は確認できず、請来された道教経典の数も限られ、道教の体系的伝来はなかった。しかし道教を構成する諸要素は、さまざまな形で受容された。伝来が確実ないくつかの中国撰述仏典について注目し、経名と符を手がかりに『道蔵』にあたり、原拠の道経を見出して、それが符を仏教的に改変し、かつ本文は道経から抜粋したものであることを確認し、また題名の類似する道経を見出して、道経と密接な関連のもとに成立したことを想定できるとする。道教を道教として直接に受容したのではなく、道教的な中国撰述仏典を通じて、古代日本は道教を受容したというのが本書の根幹をなす学説である。道教的な中国撰述仏典は、単純なものではなく、中国において儒仏道三教および民間信仰の交渉が進む過程で、相剋と融合を経て、複数の思想の要素を包摂して撰述されている面があり、中国において経典成立時にその内容はすでに重層性を持っていた。しかもこれらが日本古代の基層信仰とかかわる時にも互いに諸要素を包摂し融合することによって重層性を示しながら独自の展開を見たと論じる。これは、通常の道教研究のように単純に現前に道教として存在する事象を直接に扱うというのでなく、必ずしも道教それ自体として存在してはいないが、確実に道教につながると考えられる事象について、複雑な応用問題を解きほぐそうとするような次元の研究といえるであろう。 本書は、大著であり、内容はきわめて豊富で多岐にわたるが、しかし一貫性がある。道教的色彩の濃厚な中国撰述仏典にかかわる基本問題、すなわち各経典の存在の確認からはじまり、異本間の比較対照、主要内容の提示と特徴の検討、時代性や地域性をともなう儀礼的実践への編入や応用のされ方などの相関する問題について、先行研究や史料を駆使して、一貫して実証的に論じている。増尾さんの視野の広さ、用意の周到さ、探究の情熱を感じ取ることができる。 本書の題名が最終的に『道敎と中國撰述佛典』とされた理由を憶測するなら、日本という語を題名に入れていないのは、日本という近代国民国家的方向性にのみかかわる狭隘な問題を扱っているわけでは全くなく、日本のみならず、敦煌、朝鮮、ベトナムが広域的に問題になるからであろう。また道教という語が、何故に中国撰述仏典という語の前に置かれるのかについては、いくつかの中国撰述仏典は道教を運ぶ容れ物になっているだけであり、そこに盛られている内容の精髄は、仏教というよりは道教である。道教という内容が第一義的に重要であり、仏教はそれを運んできたにすぎないという構図からすれば、道教という語をこそ題名のはじめに置かねばならない。また疑経、偽経、疑偽経典という語は本文中ではかなり自由に用いているが、それらでなくて、中国撰述仏典の語を題名に用いたのは、疑や偽という仏教側の原理的な基準からの価値判断よりも、道教さえ包摂する肯定的積極的な創作の意義を示す撰述という語を選んだ結果と思われる。 本書で想定されている道教とは何であろうか。個別の章を超えて多出する用語に注目してあえて整理すると次のようになるであろう。延年益寿、延寿、長命、延命、消災を主な目的としており、基盤にある思想は、陰陽思想、五行思想、讖緯思想、神仙思想である。北斗、北辰、星宿に対する信仰がある。皇天上帝、三極大君以下、日月神、方角神、時辰神、山神、土地神などの神、およびさまざまな具象性をもった鬼が存在する。人には三魂七魄があるという霊魂観を持つ。これら神、鬼、魂魄は、符、呪、人形という手段を通じて働きかけることができる。官僚的な儒教思想や寺院仏教の高度な教理とは異なり、民衆独自のものとはいえない面もあるが、しかし民衆の志向に即応した内容を持ち、民衆への姿勢が手厚く、とりわけ母性や女性を重視する。以上は羅列的であるが、やや立体的に表現し直せば、これは、人の生命とその維持に対する強い志向や欲望のもとに、人の内外の時空に神、鬼、魂魄を設定して、体系的な宇宙論、世界観、生命観を基盤にしつつ、符、呪、人形を使う術により、神、鬼、魂魄に対して力を行使し、ときに民衆や女性の切実な問題に積極的に配慮し対処しようとする、仕組みであろう。およそこのような仕組みおよびそこに含まれる諸要素が、中国撰述仏典の内部において、仏教色を施された形であるにせよ、明確に述べられている場合があることについて本書では重点的に注目している。ここで注意したいのは、次の二点である。第一に、中国社会にすでに道教はあったけれども、日本に伝来した中国撰述仏典の中に、および古代日本の関連する同時代史料に、道教という語そのものの実際の用例をほぼ見出せないことである。このことは、仏典があえて道教の語を出さないのは当然であるし、また体系としての道教が伝来していない以上、社会的政治的に認められた、実体をともなう現実な制度としての道教がなかったこととも関係するであろう。第二に、上述の仕組みを、かりに道教とは別の伝統、中国文化に通底する世界観や儀礼伝統一般、あるいは単に術数というような概念で捉えてしまうと、古代日本の道教受容は、中国撰述仏典に包摂された道教の要素を受容したのであるという明快な学説を主張しにくいことである。これらの点を考慮してみるなら、上述の仕組みや諸要素を道教という語で名付ける立場を本書は打ち出しているように思う。Daoism and Buddhist Scriptures Composed in China