技術主義先行とは、技術や効率性を最優先の価値とし、社会や教育の方向性が技術的合理性によって規定される状況を指す。特に教育現場においては、本来技術は教育目的を実現するための手段にすぎないにもかかわらず、技術主義の下ではAIやICTなどの導入そのものが目的化してしまう。つまり、いかにAIをカリキュラムに組み込むかが、教育現場の目的となっているのである。/所谓技术主义先行,是指将技术和效率视为最优先的价值,社会和教育的发展方向由技术合理性所规定的状况。尤其是在教育现场,技术原本不过是实现教育目的的手段,但在技术主义之下,导入AI、ICT等行为本身却成了目的。也就是说,如何将AI融入课程体系,本身已经成为了教育现场的目标。
例えば、某大学の日本語専攻におけるカリキュラム改革では、「双向赋能」という人材育成目標が掲げられている。その実現には、第一に「学生がAIを使いこなし、日本語をより効果的に学び活用する力を身につけさせる」こと、第二に「学生が日本語の知識を活用し、AIをより適切かつ効果的に運用できる力を育成する」ことが重要だとされている。要するに、「日本語に強いAI課題解決人材」を育てようとしているのである。/例如,某大学日语专业的课程改革中,提出了“双向赋能”这一人才培养目标。据称,为实现这一目标,第一重要的是“让学生掌握运用AI、更有效地学习和使用日语的能力”,第二重要的是“培养学生运用日语知识,更恰当且有效地运用AI的能力”。简而言之,就是要培养“精通日语的AI课题解决型人才”。
それは、本来の言語教育とかけ離れているのではないだろうか。/这恐怕与原本的语言教育相去甚远吧。
こうした「日本語に強いAI課題解決人材」という目標には、以下のような問題があると考える。/这种“精通日语的AI课题解决型人才”所标榜的目标,存在以下几个问题。
第一に、言語を「道具」に矮小化する危険性である。そもそも言語は、コミュニケーション技術やコミュニケーションの道具にとどまるものではない。言語は思考を形成し、自己を形成し、構築主義の視点に立てば現実を構築する媒介でもある。したがって、このような人材像だけでは、言語教育の本来的な価値(人間形成や文化理解)が見えなくなってしまう。/第一,存在将语言矮化为“工具”的危险性。原本,语言就不仅仅是沟通技术或沟通工具。语言塑造思维、塑造自我,如果从建构主义的视角来看,它还是建构现实的媒介。因此,仅凭这种人材画像,语言教育本来的价值(人格形成、文化理解)便无法显现。
第二に、AI中心主義に陥る危険性である。外国語教育がAI作業への貢献だけで評価されることには危険が伴う。外国語人材を、将来AI作業に参入するための予備軍のように位置づけるのは危険であり、言語教育本来の目的である国際理解、異文化対話、相互理解、市民性の育成が無視されてしまう。/容易陷入AI中心主义。外语教育存在着仅以对AI作业的贡献度来加以评价的危险。将外语人才仅仅定位为将来投身AI作业的后备军,这种定位是危险的,语言教育本来的目的——国际理解、跨文化对话、相互理解、公民性培育——也会被遗忘。
第三に、AIに代替されない能力が可視化されていない点である。上記の能力に加え、AI時代において特に重要性が増す倫理観や他者に共感する力が、まったくそのカリキュラム改革の改革に入っていない。/第三,无法被AI替代的能力没有得到充分显现。除了上述提及的能力之外,在AI时代尤为重要的伦理观、共情他人的能力,完全没有被纳入视野。
このような「日本語に強いAI課題解決人材」という教育目標は、日本語学科の専門性を空洞化する考え方にすぎず、むしろ日本語学科の存続を脅かすことになりかねない。/这种“精通日语的AI课题解决型人才”的教育目标,不过是抽空了日语学科专业性的思维方式,反而只会加速日语学科的消亡。
わたしは「AI反対派」ではない。むしろ、AIと共生する時代を積極的に擁護する立場を取っている。しかし、AIと共生することとは、「AI」に無条件に降伏することではない。むしろ「共生」のもとで、私たちは技術に抑圧される側面にこそ、あえて向き合う必要があると考えている。/我并非“AI反对派”。恰恰相反,我持有的是积极拥护与AI共生时代的立场。然而,所谓与AI共生,并不意味着无条件地向“AI”投降。相反,我认为,在“共生”的框架下,我们恰恰有必要直面被技术所压抑的那一面。
「AI技術の発展」という新たな脅威を、言語を学ぶ意義や言語を教える意味について改めて丁寧に、考える契機とし、教育の在り方を見直す機会としたい。/希望将AI技术发展带来的新挑战,视为一次契机,借此重新审慎思考语言学习与教学的意义和价值,并重新审视语言教育应有的形态。
夜雨聆风