
クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』が中国本土で初公開された当日、AIと組織変革について深く思索を重ねてきた楊斌教授が一風変わった映画評を発表した。急速に進化し続けるAIの時代における三つのオデュッセイアの方向性と帰着点を論じ、組織が過去と絶えず決別し、常に旅路の上にあらざるを得ないオデュッセウス的な宿命を鋭く浮き彫りにし、AI時代の組織転換に古代ギリシャ由来の思想的示唆を与えている。
ノーラン監督の『オデュッセイア』を起点に、楊斌氏はAI、人間、組織を三つの「帰還」と「離脱」の旅に位置づける。三つの異なる漂泊の旅は、実は同一の命題を指し示している。激しい変動の中で、我々は一体どこへ帰るべきなのか、そしていつ旅立つべきなのか。帰還する者は本質へと立ち返り、離脱する者は新たな可能性を求める。おそらく、私たち一人ひとりが自身のオデュッセイアの道を歩んでいるのだ。

ノーラン監督の『オデュッセイア』が映画館で上映された。マット・デイモンがトロイア戦争の後、十年にわたる漂泊を経て、命がけでイタカへの帰還を目指すオデュッセウスを演じている。三時間に及ぶこの映画は、三千年前のホメロス叙事詩を描いたものであり――漂泊と帰郷、それは永遠のテーマである。
現実の世界に目を向ければ、三つのオデュッセイアが今まさに展開している。三人の主人公、三種の漂泊、それぞれの行く先を目指している。まず一人目の主人公――AIである。
思春期にあるAI。日進月歩で力を増し、騒ぎ立て、飼いならしがたく、既存のあらゆるものに挑みながら、自らのアイデンティティはまだ定まっていない。道具なのか、パートナーなのか、主体なのか、それとも新たに現れた神なのか。AIは境界線を探り、まだ何の約束も固めていない。人間を超えかねない力を手にしながらも、自らの位置と責任を模索している、まさに思春期にある技術なのだ。
AIが思春期にあるというのは、適当な比喩ではなく、根拠のある言い方だ。カール・セーガンは1985年の小説『コンタクト』の中でこう記している。もし主人公が高度な地球外文明に質問を一つだけ許されるとしたら、彼女が最も聞きたいのは「あなたたちはどのように『技術の思春期』を、自らを滅ぼすことなく乗り越えたのか」という問いである、と。当時、人類社会を一撃で壊滅させ得たのは核技術だった。今の時代に置き換えれば、誰もが察する通り、人々の関心は間違いなくAIに向けられている。思春期の危うさは、成長が遅いことではなく、むしろ成長が速すぎる点にある。能力が爆発的に高まり、勢いよく突き進む一方で、責任の分寸や行動の境界線が能力に追いついていない。乗り越えて成熟するのか、あるいは乗り越えられず共に滅ぶのか。三つのオデュッセイアのうち、これが最もスリリングで、人の心をつかむ物語である。
AIがオデュッセイアの旅を経るというメタファーにも由来がある。2007年、デイヴィッド・ブルックスが『ニューヨーク・タイムズ』のコラムで初めてこう提言した。従来の人生四段階――幼年期、思春期、成人期、老年期――は時代遅れであり、現在は少なくとも六つの段階に分けるべきだ。思春期と成人期の間に「オデュッセイアの歳月」を加え、成人期と老年期の間には「引退後も活動的な期間(activeretirement)」を追加する、と。新たに名付けられたこの「オデュッセイア」の時期は、思春期と成人期の間に挟まれ、流動性(fluidity)をテーマとする。仕事も変わり、アイデンティティも変わる。そして何より「自分とは何者か」がまだ定まらず、漂泊の旅の中で模索し、試行錯誤し、回帰を重ねていく時期なのである。
AIのオデュッセイアは一つのるつぼである。どのようにアライメントを図り、どう統治し、「できること」「やるべきこと」「やってはならないこと」の間で絶えず葛藤するのか。ホメロスが描くオデュッセウスの十年に及ぶ漂泊も、類まれなリーダーシップのるつぼだった。キュクロプス、セイレーンの歌、魔女の島――その一つひとつの試練は肉体だけでなく、心そのものを試している。ギリシャ人は帰郷をノストス(nostos)と呼ぶ。るつぼの試練をくぐり抜けてこそ、帰郷にふさわしい主として鍛え上げられるのだ。帰る先は故郷であり、その内実はアイデンティティの帰属と内なる安定である。
ではAIの帰還はどこへ向かうのか。私の考えでは、技術的特異点を象徴するAGIでもなければ、いかなる技術の頂点でもない。「より強く」「最強であること」を帰るべき目的地とするのは、オデュッセウスが女神カリプソの島に居座り続けるようなものだ。そこは素晴らしい場所だが、帰還ではない。AIには本来の正道がある。「人のために在る」ことだ。人によって作られ、人のために存在する。なぜAIは漂泊するのか。思春期の昂揚の中で神のように持てはやされ、主体へと僭越し、本来あるべき位置から逸れてしまうからだ。技術界が半世紀以上唱え続けてきた「我らは神となれる」という言葉を、私は問いへと改めたい――「我らは神の如き力を持つ、いかに善くその任を全うするか」。問われているのは、AIが人に寄り添い、その役割を甘受できるかどうかである。AIの帰還の目的地は、より神に近づくことではなく、「任を善く果たすこと」。それはオデュッセウスがイタカで成し遂げたことと同じだ。十年乱され続けた家を立て直し、長らく放置してきた責任を引き受ける。特筆すべきは、彼がイタカの地を踏む場面である。老いて貧しい乞食の姿に変えられ、誰にも見知られぬまま、ただ歩いて故郷へ帰る。風をまとって降臨するのでも、神々しい姿を現すのでもなく、謙虚な姿で、穏やかに故郷へと帰る。
これこそ、思春期のAIがオデュッセイアの旅を経て遂げるべき重要な変質である。人のためへと立ち返り、人の伴となることを甘受し、人を助ける存在となること。AIのオデュッセイアのテーマは、技術がひたすら突出して強大になることではなく、人と共生し、人の可能性を引き出すことだ。
ここから、現実のオデュッセイアにおいて漂泊の途上にある二人目の主人公、「人間」が登場する。人もまた帰還の旅を歩んでいる。核心へ、人間の本質へと回帰する。三つのオデュッセイアの中で、これが最も深く、心に迫る物語である。
オデュッセウスたる人間は、いったいどこへ帰るべきか。真の人間であることだ。人間にしか成し得ず、それによって「人間がより人間らしくなる」営み――意味、人間関係、品格に関わる、創造、判断、絆の構築といった行為である。これら人間の故郷こそ、ウィナーが『人間的な人間のために』で述べた「人間的用途(humanuse)」であり、塵を洗い流した先にある人間の本質だ。
人間は、あまりに長く「故郷」から離れて漂泊してきた。現代社会、大量生産、効率至上の仕組みは人間を徐々に道具化し、業務フローの部品、KPIという関数の脇役、計測・最適化の対象となり、抽出可能な断片へと還元してきた。長らく見失われ、塵に覆われていたのは人間本来の姿である。
この人間性を取り戻すオデュッセイアにおいて、AIはまさに推進力となる。AIはデジタル技術でも代替可能、あるいは人間以上にこなせる仕事を次々と引き受け、人間を解放する。長らく労働によって自らのアイデンティティを定義してきた人々は、否応なく、同時に恵まれて、人間だけが立つべき本来の位置へと立ち戻る。労働ではなく、「スコレー(Scholé、ギリシャ語σχολή)」によって自己を定義する存在へと回帰するのだ。
AIの帰還と人間の帰還は、同じ帰着点へ至る二つの道であり、互いに向き合い歩み寄る。AIの帰還とは、自らを低く置くこと――人の伴、人の道具として、人のために存在する本来の役割に立ち返る。この「低くなる」ことによって、人間は上へと持ち上げられ、人間の本質が輝き出す。低くなり、内へと回帰し、共生する姿は「AIのべき乗」という表現に凝縮される。指数の位置にAIがあり、底が人間である。方向と結末を決するのは底である。力強い指数の位置が、底である人間を支えると同時に迫り、分化、回帰、本質の顕在化、質的変化を促す。人をより人間らしく、AIをより役に立つ存在へと導くのだ。
三番目のオデュッセイア、三人目の主人公は、真逆の方向へと歩み出す。
思春期を迎えたAIとぶつかり合う中年期の組織は、長らく「家を守る」役割を担ってきた。中年期の組織とは、アイデンティティが固まり、約束が凝り固まり、業務プロセスがロックされた、家庭を守る住人のような存在だ。規模、秩序、リズムを生み出し、安穏とした「家」の先が見通せる状態を作り上げている。だが中年に差し掛かった組織は自らの罠にはまり込む。AIがもたらす急激な変化のなか、組織は家を離れざるを得なくなり、再び旅立たねばならないオデュッセウスとなる。三つのオデュッセイアの中で、これが最も葛藤に満ち、同時に最も肝要な物語である。
なぜ組織は家を離れなければならないのか。組織にとって「家」は悪いものなのか。人とAIという二人のオデュッセウスは、いずれも必死に故郷へ帰ろうとしているではないか。
答えはこうだ。組織の本質は、「家」に属さないのである。直感に反するように聞こえるかもしれないが、実はそうではない。AIには「人のために尽くす」という本来の役割があり、人間には「人間らしく生きる」という本質がある。しかし組織はそれらとは異なる。組織は目的そのものとしての「存在(being)」ではなく、手段としての「構築物(construct)」であり、ますますプロセス(organizingprocess)としての性質を強めている――人間が目的のために作り上げた道具なのだ。組織には、内的かつ本質的な「本来あるべき姿」という、帰るべき根源は存在しない。組織が自らの「家」とみなしているもの――成熟した中年期に固まったアイデンティティ、プロセス、制度、文化。これらは本質ではなく、凝固した過去、かつて成功したレシピ、かさぶたのように固まった繭であり、居心地の良さであると同時に束縛でもある。それは一つの状態、一つの過程に過ぎず、故郷でもなければ目的でもない。
だから組織はこのオデュッセイアの旅に踏み出さなければならない。本来持つ「怠け」の性質に逆らい、力を振り絞って安楽圏を離れるのだ。AIと人間には「目的因(telos、ギリシャ語τέλος)」が備わっている。本質を持つ存在が道に迷い、塵に覆われ、漂泊を強いられながらも、ずっとそこにありながら遮られていた本来の姿へと帰ろうと渇望する――「帰還」とは本来ある姿への回帰である。だが組織には固有の目的となる根源はなく、過去が形作った構造と慣性だけがある。帰るべき本が存在しない以上、「帰る」という概念自体が成り立たない。もし立ち止まり、ある歴史的状態を自分自身の本質だと思い込めば、硬直化し、執着(我執)に囚われてしまう。組織が忠誠や永続を語るのであれば、それは未来に対して、無限の新たな可能性のためにのみ語られ得る。組織の生きる道は、絶え間ない再出発、自らを絶えず再創造することしかない。チャールズ・ハンディの言う「第二曲線」である。私の言葉で言えば「執着を解く」ということだ。「これ以外にありえない」と固まった成功を解きほぐし、「別のあり方もあり得る」「まだ成長できる」状態へと解放する。
「帰還」とは本質への回帰であり、「離脱」とは執着を断ち切り再生すること。
「帰還」は核心へと向かう求心力であり、「離脱」は多様性を求める革新の力である。
したがって組織が本当に恐れるべきものは、漂泊と冒険ではない。現状に安住し、リスクを回避することだ。オデュッセウスの物語は帰郷をもって幕を閉じる。しかし組織の物語は、決して帰郷によって終わることはない――組織にとって安楽な「家」は硬直と死を意味する。生き延びるためには、ずっと旅路の上にいなければならない。そう、組織とは、決して到着することなく、冒険のたびに新たな命を得続けるオデュッセウスであらねばならない。
それでは、組織にとってのオデュッセイアとは、もはや名詞ではない。ついにイタカにたどり着き、妻子と再会した英雄のことではないのだ。組織においてオデュッセイアは動詞であり、絶えず故郷を離れ、永遠に道を行き続ける生き方のことである。組織がこの動詞の状態から立ち止まり、名詞でもって固定された「何であるか」を総括し、歴史に刻まれた栄光を語り、戦功の輝かしい勲章を飾り立てた瞬間、歩みは死に向かう道へと曲がってしまう。
組織に再び「オデュッセイア」を歩ませられるかどうかは、組織を構成する人間にかかっている。人をその一歩へと駆り立てるのは成長型思考、無限ゲームの精神である。「私はもうこれである」という確信は、常に「私はまだなれる」という思いに譲らなければならない。ライバルに勝とうとする闘争心の上には、飽くことのない好奇心がある。
私たちはいま現実版のオデュッセイアを生きている。三人の主人公、三つのさすらい。人間が生み出したAIは、オデュッセイアを経て適材適所へと収まり、神になるのではなく自らの居場所を定める。人間のオデュッセイアはAIの力を借りて心と本質へと立ち返り、人間をより人間らしくする。そして組織は自らを絶えず「オデュッセイア」させなければならない。根拠のない「故郷」という幻想を見抜き、旅立ち続け、永遠に征途にあり続けるのだ。
映画『オデュッセイア』の初映に際し、マット・デイモンは複雑な思いを語った。ノーラン監督はIMAXフィルムと世界各国でのロケ撮影にこだわり、自身が駆け出しだった頃の映画制作環境、初期ハリウッドの壮大なエピック映画の撮り方を取り戻そうとしていたのだ。デイモンは嘆く。CGIが主流となった今、ノーランのような手法はもはや稀であり、自分自身もこうした撮影に携わる機会は今後ほとんどないだろう、と。
デイモンの言葉は、ある時代の終焉を告げているように聞こえた。だがノーランは、この見方にはあまりに悲観的だと反応した。英雄は退場したがらないものだ、と。確かにそうだ。ノーランが古き技で壮大な叙事詩を撮ることは、過去の名作を取り戻す「回帰」なのか、それともCGIの時代に逆らう「離反」なのか。本人自身もはっきりとは分かっていないのかもしれない。
歴史的に見れば、物語が終わることも、人々が散り果てることもない。技術と人間の邂逅は、回帰であろうと離反であろうと、オデッセイは進行形としていつものように繰り広げられるのだ。


作者プロフィール
楊斌(ヤン・ビン)博士。清華大学校務委員会副主任、経済管理学院教授、リーダーシップ研究センター主任、清華大学持続可能社会価値研究院院長、清華大学(社科学院)・野村総研中国研究センター理事長を務める。これまで清華大学副学長、教務長、大学院院長などの要職を歴任。専門は組織行動学とリーダーシップ、企業倫理と社会的責任、高等教育マネジメントなど。著書に『企業突然死』『戦略リズム』『明明徳にあり』ほか。訳書に『大学の窮状と革新』『変革の正道』『MBAではない管理者』などがある。また清華大学精品授業である『批判的思考と道徳的推論』『リーダーシップと組織変革』『経営思考』など複数の講義を企画・担当している。
訳注:映画『オデュッセイア』は日本では2026年9月公開予定。
出所)iWeekly 周末画報

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